男性のドナー

20代男性

レシピエント

私は母のドナーになりました。ドナーになろうと思った理由は一つ、肝移植手術をしても自分が持っている運動機能の低下はないと言われたことでした。

しかし、決心するまで悩まなかったわけではありません。私は9年間自転車の選手として生活をしてきました。日頃の栄養管理はもとより生活の全てを、運動機能の向上のために、悩み、考えてきました。それこそ献血にすら行こうと思った事は一度もありませんでした。腹を切るなんてとんでもない事なのです。

私が自転車に興味を持ち始めた頃、いち早く後押ししてくれたのは母でした。夏でも冬でも、レースがあると知れば車に乗せて連れていってくれ、具合が悪い事など表に出さず、本人以上に一生懸命に自転車について調べて応援してくれました。そんな母の姿を思い出し、なかなか移植をする事への決心ができないでいる母に、今度は自分が後押しをしてあげる番だと思いました。

来年からは私にとってとても大切な年になります。本場ヨーロッパで世界への挑戦が始まります。これからも母への生きる力の源であり続けたいと願っています。

– 退院時記録より –
2001.9.28

30代男性

レシピエント

私の長女は生後まもなく先天性胆道閉鎖症と診断され、生後13ヶ月で移植手術をしました。ドナーの選定は、妻と私が検査を受け、結果の良かった私がドナーになりました。

術前の検査の中で一番辛いと聞いていた血管造影は、ベッド上で身動きができないことが辛いと経験者は訴えていたが、私はそれよりも尿道(尿管を入れる)の痛みが辛く、安静が解除になる事より尿管が抜けた事がうれしかった。

手術前日、下剤の影響でトイレへ頻繁に行った為、就寝時刻は遅かったが、緊張等はなく、よく眠れた。手術当日、手術室に入りびっくり。広くて明るく、新しい。外来棟とは雲泥の差。手術台の上で横を見ると、15分前に入室した娘の手術であろう光景が見えた。人だかりで姿は確認できなかったが、人だかりは小さく密集していた。その後は麻酔が効いて、何も覚えていない。目が覚めるとICUにいた。(実際は、完全に目は覚めていない)。妻に、元気になったら牛どんが食べたいと言っていたらしい。

ICUに一泊して、退室時に娘のベッドの横につけてもらった。娘は、術前より明らかに弱い泣き声で泣きじゃくっていた。娘の顔を見て、生きている事に安心した。顔色は大変血色が良く、目の黄疸が消えていた。

術後1日目は、思っていたより痛くなかった。この程度の痛みだったら、2、3回ドナーになってもいいなと思った。術後2、3日目はだんだんキズが痛くなり、3日目は、ナースーコールで痛み止めを要求し、注射を打ってもらえる時間を待つほど痛く、こんな状態で回復する姿が想像できなかった。私は便秘症でこの時お腹はキュルキュル音はしていたがガスも便も出ず、浣腸をしてもらった。浣腸で刺激を受けて沢山ガスと便が出て、下腹の張りがなくなり、キズの痛みが和らいだ。ガスや便が早く出ていたら、もっと楽だったかもしれない。その後、ベッドを90度(直角)まで起こすことができるようになった。

術後4日目、朝から池上先生が、早く回復するようにとベッドから立ち上がるサポートをしてくださった。歩行できるようになると、尿管が抜け、点滴が多量に入る為、1時間に2、3回トイレに行くのが大変。姿勢を正すとキズが痛む為、背中や腰を丸めて歩行。幸い、トイレに近い部屋で良かった。夕方、車イスに乗り、妻と二人で術後初めてICUで面会。この時は、ドナーの私よりレシピエントの娘の方が回復が早かった。

歩行できるようになると、日々回復していく事が実感でき、自分の体の事より娘の事が気になるようになる。娘がICUから病棟に上がってくると、日中はよく娘の部屋に行っていた。退院前の採血で肝機能の値が上がっている事がわかり、1週間ほど退院が延びたが、娘と過ごす時間が長くなったという事でこれはこれでよかったと思っている。

最後に、移植班の先生方、草深コーディネーター、看護師さん、大変お世話になりました。娘の容態は決して手放しで喜べる状態ではありませんが、家族3人平凡で暮らせる日を楽しみにしています。ありがとうございました。

– 退院時記録より –
入院 2002年5月
退院 202年6月

30代男性

レシピエント 母親

私の母は、原発性胆汁肝硬変のため、生体肝移植を受けることになりました。ドナーになるのは、私か妹のどちらかと家族で相談をした結果、妹は昨年の12月に長女を出産したばかりのため、私がドナーになる事になりました。検査等で色々と不安もありましたが、手術前には、不安はまったく有りませんでした。手術の当日も普段と変わらなく、気が付いたら手術は終わっていたという感じでした。

手術後傷口の痛みが有って、痛み止めを何度も打ってもらいましたが、私にはあまり効かないようでした。痛みはすぐに消えると自分に言い聞かす毎日でした。傷口の痛みが治まって、後に辛かった事は、腰の痛みでした。痛みが酷く、眠れない日が1週間ほど続きました。日が経つにつれ、それぞれの痛みも消え、体も楽になってきましたが、食後の腹部のつっかえ?みたいな物だけは、まだ残っています。 色々と大変でしたが、これからドナーになられる方は、勇気と希望をもって頑張ってください。絶対に後悔などしません。

信大の先生方、看護婦の皆様、本当にありがとうございました。

– 退院時記録より –
入院 2002年4月
退院 2002年5月

30代男性

レシピエント 父親

親父がC型肝炎による肝硬変で非常に悪い状況になり、生体肝移植を受けることになりました。私は3人兄弟ですが、弟は4月6日に結婚したばかり、妹はまだ独身なので、長男の私がドナーになることにいたしました。東京で検査を受けた時に、どうも肝臓が大きすぎるので脂肪肝ではないかといわれ、万歩計をつけてせっせと1日1万歩を目標に歩きました。(結局、脂肪肝ではなく、本当に肝臓が大きいだけでした。)

4月9日に入院し、血管造影の検査を受けましたが、検査後に出血を止めるために上を向いて安静にしていなければならず、これが大変でした。そのせいで、前に椎間板ヘルニアをやりましたが、かなり似た症状で数日間動けなくなりました。そのため、手術の時は、膝の下に枕をおくなどの処置で、膝に負担がかからなくなるようしていただきました。結局、膝は手術後の痛みは出ませんでした。

私は、アレルギー体質でアトピーがひどく、普段は朝晩2回シャワーを浴びて薬を塗っていましたので、手術後はしばらく入浴ができない状況なので、アトピーが悪化しないか心配でした。しかし手術後にステロイドが使われていたため、アトピーは非常にきれいになり、塗り薬もしばらく必要ないほどでした。ステロイドの使用が終わって、だんだんアトピーが出始めましたが、その頃はもうタオルで背中を拭いてもらったり、シャワーを浴びたりできるようになり、薬もきちんと塗れたので、アトピーの件は、まったく杞憂に終わりました。

手術当日は、結構緊張しました。麻酔科の先生が、硬膜外麻酔の管を通すために背中に最初の麻酔を打つ時、チクッとしましたが、後は痛みは全くありませんでした。しばらく背中の管を通している時、先生の話し声が聞こえましたが、全身麻酔が始まると意識も全く無く、気がついたら手術が終わっていました。目が覚めたのが手術室の中だったかどうかもわかりません。ベッドのまま移動してICUに入ったような気がしますが、よくわかりません。わが愛妻の顔を見て安心しました。

ICUは、1泊のはずが2泊になりました。痛みと吐き気がひどくICUでの記憶はほとんどありません。定期的に吐き気がきて、しかも吐くものがほとんどないという状況でした。こんなに苦しいのなら、ドナーになるのではなかったと正直思いました。ICUではほとんど眠れなかったのではないかと思います。時間の感覚がまったくなく、ただ必死にナースコールを握りしめていました。

一般病棟に移っても、最初の晩は状況は変わりませんでした。吐き気はなくなりましたが、手術の跡の痛みがひどく、ベッドにあたっている所が痛くて5分に1回くらいの割合で体の向きを換えたくなりました。最初の夜は、ナースコールで何度看護婦さんを呼びだしたことかわかりません。体の小さい看護婦さんが、何回も走ってきては、簡単に向きを換えてくれるのが、本当にありがたく感じました。

二晩目からは、飛躍的に回復しました。ただ、夜眠れないので痛み止めをもらうと短い夢がぱっぱっといくつも出て来て反対に目が回るようでした。その後も、軽い導眠剤をもらいましたが、肝臓の数値に影響が出たのであまり飲まなくなりました。よく考えてみたら、普段から午前1時過ぎに寝て、5時間程度の睡眠でやっていますから、あまり長時間眠らなくてもよいのだろうと、気が楽になりました。

尿管が取れると、気は楽になりましたが、点滴がずっと続いているので、夜もしょっちゅうトイレに行きたくなりました。2時間おきあるいは夜もよく寝ていても4時間くらいでトイレに行くことになり、これは結構負担でした。 もともと便秘がちの方ですが、1日1回はお通じをと先生方から言われ、あせりました。結局2回ほど浣腸をされ、その後2日ほど下剤を飲みました。なかなか腹に力が入らず、変な感じでした。点滴は、2日に1回刺し直す事になっていましたが、右利きなので、ずっと左手にやってもらいましたが、そのうちに左手が痛くなってきて、仕方なく右手も使いました。

順調に回復していたつもりですが、突然食事ができなくなり、5月1日に胃カメラで、胃のねじれを直していただくことになりました。また、食事も重湯からになり、ショックでした。

予想外だったのが、テレビの番組のつまらないことと、昼間やたらと料理番組をやっていることに気付いたことです。食事が制限されている時に、料理番組は効きました。かなりの本を読むことはできました。

– 退院時記録より –
入院 2002年4月
退院 2002年5月

40代男性

レシピエント 息子

今回の手術は再移植です。5年前に私(母親)からの移植を受けました。手術後も、副作用からくる糖尿病や緑内障等、少ない可能性の症状が現れました。そして、原因不明の肝炎。「再移植の可能性」と伝えられたのは、約3年前のことです。その時点では、国内での再移植の成功率の低さと危険性の説明を受け、目の前が真っ暗になったのを覚えています。幸いにもその後、国内での脳死による臓器移植の法律も認められ、信大も指定病院になった事により、状況もかなり恵まれたものになってきました。できるものならば再移植は避けて通れれば…との思いで、経過を診てもらっていましたが、今年の5月、黄疸が急激に上昇。再手術しか手段のないところへ来てしまいました。

3年前に、再移植という話を聞いた時に、主人が同じ血液型でドナーの可能性があるという事で、脂肪肝があったのを禁酒により治しておいたのが幸いして、今回の急激な悪化にも手術の準備をする事ができました。脳死のドナー登録も行いましたが、いつになるかわからない脳死提供を待つ事は、体力的に不可能でした。最短の準備期間をとってもらい、7月9日に手術と決まった時は、本当に首を長くして待つ心境でした。指折り数える日々、黄疸からくる痒み、朝起きると肌着が血でにじんでいる様子を見て、早く楽にしてやりたい思いの一心でした。

手術当日、息子はとても冷静にストレッチャーに乗り手術室に向かいました。再移植で処置に時間がかかるので、主人の入室は1.5時間後でした。気を紛らわすように家族と話をしていましたが、内心言葉にできないものがあったと思います。

最初に、25時間位かかるとの説明を受けていたので、翌朝には対面できるものと思っていました。主人は、予定通り12時間後にはICUに入りました。が、息子は、途中で術法の変更があったり、血管がもろくなっていて繋ぎ合せる事がなかなかできないという状況が延々と続き、結果36時間という最長記録の大手術となってしまいました。

再移植は、そうあるものではありません。ごく稀なケースに息子は巡りあってしまった訳ですが、こうしてまた元気な姿になる事ができ、その現実があります。ドナーとなった主人は、盲腸の手術も受けた事のない人で、いきなりの大手術で大丈夫かな…との思いもありましたが、他の皆さんも書かれているように2、3、4日目が痛みのピークでした。でもがんばって4日目にはベッドから起き上がり、ICUの息子と会うことができ、それからは順調すぎるくらいのペースで回復して、周りの皆を驚かせる状態でした。3週間目には退院という最短コースでした。

これからドナーとなられる皆様、不安は必ずあると思います。痛みもあります。でもそれは、ほんの数日。病の苦しみから救われるご家族への思いを大切にしてください。大勢のドナーの先輩の方々が、現在元気に暮らしている事が現実ですから…。

治療にあたってくださった医師の皆様、看護師の皆様、草深コーディネーターに「感謝感謝」の一言。本当にありがとうございました。

– 退院時 妻代筆 –
入院 2002年7月
退院 2002年8月

40代男性

レシピエント 父親

私は、妻のドナーになりました。

生体肝移植とかドナーとかそういう言葉は、私や妻や家族にとって新聞やテレビの中での事しかありませんでした。妻は、長男を出産して間もなくリウマチになり、10年間リウマチと闘ってきました。でも、3年くらい前からリウマチとは違った症状が出てきました。目が見えにくくなってきたのです。9月にこの病気(FAP)を見つけてもらいました。眼科で見つけられるは奇跡に近いと言われました。本当にラッキーでした。

私達夫婦は、一人っ子同士の結婚で、ドナーになってもらえる人がいませんでした。でも、私の血液型がO型なので検査で問題がなければドナーになれると言われて、検査を受けました。人間ドックと変わりないだろう思っていた私は、大変な1週間の検査を受ける事になるのでした。かなり苦痛でしたが、妻の事を思うと…。検査も無事終わり、適合ですといわれた時は、とてもうれしくて二人で泣きました。

手術の前にドミノ移植になるかもしれないと言われ、肝臓病で苦しんでいる人の為になるのであればとOKしました。妻の臓器がその人の中でいつまでも元気に働いてくれる事を願います。

私は、約1ヶ月の入院生活で済みました。手術前にドナーの方々の話で、胃がねじれたとか手のしびれが続いているとか聞いたので心配していたのですが、何事もなくホットしています。妻も順調に回復しております。これも、移植班の先生方、草深コーディネーター、ナースの皆さんのおかげです。ありがとうございました。

– 退院時記録より –
入院 2001年12月
退院 2002年1月

50代男性

レシピエント

我々家族にとっては、テレビ・新聞等、マスコミから流れて来るだけの出来事と思っていた事が、突然現実として目の前に現われてきた。

1月末、初めは風邪かインフルエンザと思っていた娘の状態が急に悪くなり、夜間救急病院、昭和大学病院と運び込まれた時点で、劇症肝炎という診断を受け、あれよあれよという間に生体肝移植が必要という事になった。移殖例の多い東大・信州大附属病院への問い合わせの結果、信州大で受けていただく事になったが、一刻を争う状態であったため、現住所の横浜に近い八景島の消防緊急ヘリにて信州大まで輸送することになり、ドナーとなる予定の妻と娘がヘリコプターで運ばれて行った。私は別途、新宿から「あずさ」に乗り松本まで行ったが、途中携帯電話に、妻の肝臓が小さくドナーとしてはあまり適当では無いので、私もドナー候補となる旨、連絡が入った。

信州大到着後、事情を聞きながら、私がドナーとなりうるか並行して検査が進められた。私は365日かなりの量のお酒を飲んでいたが、幸い脂肪肝にもなっておらず、また他の検査値もドナーになるに値するとの結論を得た。それから、肝移殖の歴史、難易度、患者の生存率、生存したとしても残るかもしれない後遺症、そしてドナーへの術後の影響等、詳細に説明があり、母親・父親のどちらがなるかの判断を迫られた。最終的には危険度が少しでも少なく、体力的にも優る私がドナーになる事とした。

以上が手術を受けるまでの簡単な経緯であるが、今回、手術を受けるに当たって、また受けた後に感じた事は、次の様な事項であった。

娘の状態が一刻を争うものであったため、ドナーとなりうるのであれば少しでも早く手術にかかってほしいという気持ちが先に立っていた。
どちらがドナーになるのかの決断の前に、現在どの様な状況でどの様な手術を行ない、結果として得られる成果または影響について、簡潔で解かり易い説明を受けた。特に発生するかもしれない影響について明確に説明頂いたので、逆に覚悟が出来た様な気がする。
当初の説明で費用も300万円程度覚悟が必要だと言われた。我が家には子供も3人おり貯えも無く、どうしようかと思ったが、お金のために手が施せなかったというのは、後々大きな悔やみだけが残るであろうから、何とか手術をして頂くつもりでいた。初めて池上先生と電話で話をした時に同様の事を言われ、勇気づけられた。
私は常日頃から非常に涙もろくテレビを見ていても涙ぐむ事があるので、娘の容態が変化する場面場面で何度か泣いた。一方、将たる者が、意気消沈していたり投げやりになっていれば、必ずその気持ちが組織に伝わり、全体の活力をそぐので、苦しい時ほど陽気にと心掛けてきたが、今回、手術及び術後治療に当たって頂いた移殖チームの先生方がまさにそうであった。非常に助けられた想いがする。

未だ、娘の容態は一喜一憂するところでありますが、医師団、看護婦の皆様、草深コーディネーターには、感謝感謝であります。

– 退院時記録より –
入院 2002年1月
退院 2002年2月

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