女性のレシピエント

20代女性

疾患 原発性硬化性胆管炎

手術してから2年半位経ちました。手術後は特に熱を出すこともなく順調にきています。

薬を飲むこと以外は他の普通の人全く一緒でこの2年半の間に結婚、引越など、忙しい日々を送っています。手術する前は、いろんな制限があったり体が思うように動きませんでしたが、今はとても幸せです。これも何かがあるとすぐ対応してくれる先生方、優しく声をかけてくれる看護婦さんたち、そして家族のおかげと感謝しています。本当にありがとうございました。

– 外来通院時記録より –

20代女性

ドナー 父親
疾患 劇症肝炎

私は、劇症肝炎になりました。それまでは、学校に行き部活(サッカー部)をし夜通し遊ぶ、というかなりハードスケジュールの毎日でした。だから、何で私はこんなに生き急ぐのだろう?と思っていました。私の周りに一人、B型肝炎の人がいたので、ネットで「肝炎」について調べた事はあったのですが、劇症肝炎という言葉さえも知りませんでした。

そうこうしている間に、突然、風邪のような症状が出ました。でも、卒業を控えていた私は、無理して学校に行ったりしました。近くの病院に行くと、インフルエンザかもしれないから、風邪薬が効かなかったらまた明日来るように言われました。その日で私の記憶は途切れているのですが、次の日の夜、紅茶の様なものを吐いたらしいです。皆を起こすまいと我慢していたらしいのですが、あまりに辛かったのか、母に訴え、湘南泉病院から昭和大病院とはしごし、内科的処置では助からない所まできていました。体中腫らんで黄疸も出ていたので、母は「黄色い水死体」だったといつも言っています。
脳障害も最高レベルに達していたので、涙まみれの父を見て、「パパ、何でそんなに汗をかいているの?」と言ったそうです。信大病院へは、ヘリコプターで運ばれ、横浜から松本まで45分くらいだったそうです。

ドナーは父です。母の肝臓は、小さかったらしいです。だから、自分の事しか考えてない肝臓だと嘆いていましたが、気持ちだけで十分です。両親に感謝です。
ほとんどの先生が助からないだろうと判断したそうですが、移植チームの先生方は天才です。合併症で腎臓が悪くなったり、血が溶けてしまったりしたのですが、何の後遺症も無く、元気にしてくださいました。

ICUには1ヶ月ほど居ましたが、夢と現実がごっちゃになっていたので、私は、何かの「組織」の実験に使われているんだと思い込んでいて、先生を蹴ったり、看護婦さんに迷惑をかけてしまいました。病棟に上がってからも、1日に何度も先生方が見に来てくれて、看護婦さんは笑顔で「○○ちゃん」と言ってくれて、同じ病棟の方たちも声をかけてくれました。草深さんは、毎日採血結果を持って、励ましに来てくれました。鬱気味だった私も、少しずつ楽になれました。

ICUに居た頃は、自分で起き上がることもできなかったのが、今では階段も上がり下がりできる様になって、もうすぐ退院です。あんなに退院したがっていたのに、今では少し寂しい気持ちです。それは、信大病院での生活が快適だったからだと思います。

最後に、先生方、看護婦さん、草深さん、薬剤師の寺本さん、両親(家族のみんな)、同じ病棟の皆さんに、感謝の気持ちでいっぱいです。有難うございました!

– 退院時記録より –
入院 2002年1月
退院 2002年4月

40代女性

ドナー
疾患 劇症肝炎

今まで健康ということは、私にとって当然のことで、普段の生活の中でまさか自分が病気になるなど、考えることもなく暮らしてきました。そんな私がある日突然、劇症肝炎になり、肝移植の手術を受けるなんて、今でもまだ信じられないような気持ちです。

私が肝移植が必要になった時、私の実家の熊本からたくさんの親戚がドナーとなるために、名古屋へ集まってくれたそうです。その頃私は肝性昏睡で意識がはっきりしなかったため、家族から後で聞いたのですが、私のためにドナーになってくれたのは、最終的に20歳の甥に決まったそうです。この時の甥の心の中でのいろいろな葛藤を考えると、本当に申し訳ないと思います。どんなにどんなに苦しんだろうと思います。今回病気になって、本当にいろいろな人のお世話になり、人は一人で生きるんじゃないと、つくづく思い知りました。

ドナーになってくれた甥にはもちろん、高いリスクを抱えた私の手術を引き受けてくださった川崎教授をはじめ移植班の先生方には、どのように表現していいのかわからないほど感謝しています。また、西5階病棟の看護スタッフの皆様、ICU・手術室・草深さんと、信大病院、各部署の皆さんに本当に感謝しています。そして、献身的に看病してくれた主人や母親、私の姉、妹にも心からありがたいと思っています。

私は健康だった頃、テレビなどで脳死移植や生体肝移植のニュースを聞くと、自分以外の家族(主人やこども達)の場合は、どんな事をしてでも助けたいと思うけれど、自分の場合には、人が亡くなるのを待って肝臓をもらったり、元気な人の体に傷をつけてでも肝臓をもらおうとは思わないねと、よく主人と話しをしていました。手術後こんな考えは、生きるとか死という事を、現実のことと考えていなかったのだと気づきました。健康な時にはまさか自分が肝移植を受けるなんて絶対無いという思い込みの上で、物を考えていたと、手術を受けて気づいた気がします。手術後苦しくてたまらない時死を実感し、本当に恐ろしい思いをしました。

今は手術をしていただいたことを、本当に良かったと感謝の気持ちでいっぱいです。そして、ドナーになってくれた甥とその家族になんと言って感謝していいのか…。ドナーになってくれた甥のためにも、1日でも長く生きていけるように、健康に気を付けて、生活していこうと思っています。そして、身体的にも、精神的にも落ち着いたら、今回受けた恩をどういう形にせよ、世の中に少しでも返すことができたらな…、と思っています。

– 退院時記録記録より –

40代女性

ドナー 配偶者
疾患 原発性胆汁性肝硬変

私は移植をして6年目になります。身体の調子がわるくて検査入院した時には、病状がかなり進んでいて、移植をしなければだめな状態でした。私は移植のことはぜんぜんわからず、主人が先生と相談して信大に通院して移植をしました。ドナーは主人です。手術後はとてもつらく、痛いしICUにいる時は先生や看護婦さんを困らせていました。

今は元気にしています。移植は手術した後が大変ですけど、これからも病気と戦ってぜったい何があっても私は負けない、いつも思っている言葉です。
移植班の先生方、2内の清澤先生には大変お世話になりました。感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございました。そして、主人にも感謝しています。「ありがとう、○○ちゃん」

– 外来通院時記録より –

50代女性

ドナー
疾患 原発性硬化性胆管炎

平成13年3月に体の異常に気づき、6月14日に移植手術を受けました。手術後の経過は決して良いものではありませんでした。毎日、自分は本当によくなるのだろうかと大変不安で、先生や看護婦さんにずい分ご迷惑をおかけしました。

3ヶ月過ぎた今、自由に歩きまわれる自分が夢のようです。先の事を考えると不安はありますが、一日一日を大切に生きていきたいと思います。

– 退院時記録より –
入院 2001年6月
退院 2001年10月

50代女性

疾患 B型肝硬変

2日後に肝移植をひかえた今の私の気持ちをという事で少ししたためたいと思います。

正直いって「こわい!」「不安!」の二言です。先生方、ナースの皆さんは「困った事は?」「不安な事は?」とおっしゃって下さいますが、すべてが不安で何が何だか解からないけれどこわいのです。

振り返ってみると、私とこの病気との出会いは1年8ヶ月前平成12年4月10日、初めて病院に行って診てもらった時にB型肝炎の肝硬変という診断。その時までその言葉さえ、私の頭の中になかった、というより全然知らなかったのです。即入院、もうその時は小さいながら腫瘍が巣食っていました。入院して1年3ヶ月頃、黄疸が下がらずもはや肝移植しかないと言われた時は、1週間食欲もなく頭の中はブルーな状態でした。でも早く手を打つしかないと思い、紹介された九州大学病院へ言って診てもらうと、主人や子供がドナーになるのは血液型が異なるからという事でダメになりました。

実家のある信州にすぐ来るように言われ、信州大学病院へ来て診て頂いたのが最初でした。でも、身内のドナーの不適格を知らされて、又もや谷底に落ちていく様な気持ちでした。故郷まで私を見捨てたかと、恨めしかったし絶望もしました。

その2ヶ月半後、九州へ帰って内科治療で入院していたところ、信大病院からドナーの知らせが入り、今度は天にも昇る気持ちでその病院を退院し、その日の内に空路で信大病院に入院させて頂き今日に至りました。

ドナーがいなくて、その間に自分の身体が一日一日と病んでいくという不安と悲しみで悶々とした日々に比べたら、今ようやくここまで来たかと思うとありがたい事です。もちろんドナーの方のご親切、信大病院の先生方、草深さんのご尽力があっての事と感謝申し上げます。

でも今度はあらたに手術にあたり、頭をもたげてくる気持ちは筆舌に尽くしがたいものがあります。
はたして上手にいくものかどうか?
お元気になられた方に会わせて頂き話を伺うにつけ、私もこのように笑って話など出来るのだろうか?
そんなこんなの気持ちが頭の中を錯綜します。ジョークを言って笑わせて下さる時の先生方には心が和みますが、こわい事をおっしゃる時の先生方には最悪の場合を考えて言っているのだと自分自身に言い聞かせてみるけれど、その最悪の中に自分があてはまったと思うとやはりこわい!
でも、もうやるしかない。ハイリスク→ハイリターンを信じて自分を奮い立たせる。家族も私と一緒に泣いてくれた。つらかった。その事を思うと絶対にいきてやろうと思う。心に誓う。
「先生方を信じて信大病院に来てよかった。本当にありがとうございました」と2ヶ月3ヶ月後にこのページに書き足したい気持ちで、いよいよ2日後にその日を迎える。 最後に、半世紀に渡り私と付き合ってくれ、今取り除かれようとしている肝臓に…。ありがとう、おつかれ様でした…。

– 手術前記録 より –
入院 2001年12月

50代女性

ドナー 配偶者
疾患 慢性腎不全(腎移植)

このノートには、肝移植を受けられた方々の辛い思いや、感動のことばなどが記されていますが、私は腎移植を受けた50歳の主婦です。生きるために選択をよぎなくされた方々の肝移植と、より質の高い生活を得るために受けた腎移植とでは、本質的に違うかもしれません(腎不全には人工透析という道があるからです)が、臓器移植という先端医療で“生命”の尊さ、重さを思い知ったという点では同じだと思い、このノートに移植を受けた前後の気持ちを書いてみようと思いました。

私の場合は、長年腎不全で病んでいたという訳ではなく、平成11年9月に入院し、12月より週2回の人工透析になり、近くの診療所に通いながら信大にて主人との生体夫婦間移植のための検査入院の結果、H平成12年 8月に手術を決めていただき、10月に手術、そして術後4ヶ月で今はほぼ日常生活は普通に、また主人は術後10日目で退院、普通に生活ができる状態で、すべてが幸運にもスムーズに進みました。私の方は、術後2ヶ月位から感染症が出てきて少々悩まされましたが、移植腎の方は順調に機能しています。

これらすべては、主人と信大第2内科腎臓班移植チームの先生方、看護スタッフの方々のおかげと思っています。“病気”という不幸の中でも、様々な形での出会いがあり、それらがこれからの幸運にもつながっていると思っています。

突然の腎不全、人工透析はこれまでの人生観をすべてひっくり返す出来事でした。すっかり落ち込み、絶望し、回りのものすべてを恨み、こうなったのもみんな他人のせいにするような気持ちを持ったりで、それはひどいものでした。あの頃を思うと、今はなんと心穏やかにすべてを広く受け入れる心を持てた、と我が心ながらこの変化に驚いています。それほど、この移植によって、様々なことを学び知ることができたと思います。

一番強く感じたことは、一つの生命を救うために、すごくたくさんの人が力を尽くしてくれている、なのに一方で、いとも簡単に健康な生命を捨ててしまっている人々がいる、生命はこんなに重く大切なものなのに! ということでした。この気持ちを少しづつでもいろんな人に語りかけ、伝えていくことが、私にできる“生命”を贈っていただいたことへの恩返しだと思っています。

生きている素晴らしさは、“死”を真近にしたことのあるものにとって、より深いものです。大切に生きていこうという気持ちがあふれてきます。これは移植を受けたものは、皆同じ思いだと思います。これからも、何かと大変な思いをして得た“生命”をより大切にいきてゆけると思っています。回りの人の支えとともに、共にがんばりましょう。

– 退院時記録より –

50代女性

ドナー 長男
疾患 原発性硬化性胆管炎

14年前にP.D(すい頭十二指腸切除)の手術を受け、腸閉塞のための入院を何回もくり返しましたが、いたって健常人と変わらない生活をしてきました。平成元年、信大の第2内科で検査をし、「原発性硬化性胆管炎」と診断されました。

昨年10月、黄疸の症状の出現により入院生活が始まり、一時退院するも1ヶ月経過しないうちに再入院。ステロイドの投与を試みましたが効果はなく、2月末には肝移植しか生きる道がない旨の説明を受けました。今まで移植についての知識もなかったので、未知の世界の不安と同時に、健康体の子供にメスを入れることによる将来への影響等に思いをめぐらし、自分の意思決定を今ひとつ踏み出せない気持ちでいました。

しかし、信大へ転院し、医療スタッフの方々や病棟の移植経験者の方々とお会いすることにより、私の不安は一掃され、振り返ることより前向き姿勢に変わりました。もちろん子供達の支えも大きかったです。中澤先生と相談の上、ドナーは長男ということになりましたが、長女が付き添い等生活面を支えてくれると言うので甘えることにして、親子3人の生活が始まりました。長女が東京から帰り、手術前2ヶ月の自宅待機期間は貴重な日々でした。久しぶりの親子3人水入らずの思い出に残る日々です。そんなことも手伝ってか私の術前の心身の状態が良かったので、術後も大きな問題もなく順調に回復しました。

近々退院する予定でおりますが、今までスムーズにきてしまったので逆に不安もありますが、気張らず、うまく付き合っていくよう心がけたいと思っています。

移植班の先生方はじめ草深さんスタッフの皆様、本当にありがとうございました。移植医療の発展を祈ると共に、私にできる恩返しは命を大切にし社会復帰することと念じております。

移植の仲間の皆様、勇気をありがとう。そして、がんばりましょう。

– 退院時記録より –
入院 2001年8月
退院 2001年11月

50代女性

ドナー 三男
疾患 原発性硬化性胆管炎

前橋日赤病院に緊急入院するまでは、高崎の病院に通院していました。病状の回復は認められず悪化していきました。前橋日赤に入院後すぐに肝不全なので移植の方向でと、信大を紹介されましたが、ただ単に移植の道しかないと言われても、ドナーと費用の問題がありました。信大から先生が日赤まで来てくださり、いろいろと説明を受け、3男をドナーとする生体部分肝移植をすることに踏み切りました。

多数の先生方・看護婦さん方による17時間にもおよぶ手術も成功し、もう少しで3ヶ月になります。快方に向かっています。

術後、傷の痛み等で看護婦さんを怒ったり先生にわがままを言ったりしましたが、消えかかった命を先生方・看護婦さん、その他いろいろな人たちのおかげで、元気になることができました。感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございました。

– 退院時記録より –

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