女性のドナー

20代女性

レシピエント

娘が4ヶ月で胆道閉鎖症とわかり、それからの2年2ヶ月は私達家族にとって戦いでした。葛西手術(肛門部腸吻合術)を受け、その時には娘の肝臓はすでに肝硬変になっていました。術後2ヶ月で退院はしたものの10日間家にいただけで発熱し、胆管炎を起こし、また入院。そんなことを2年以上何十回も繰り返してきました。しだいに効く抗生剤も少なくなり、移植の話が進みました。2才半になる娘ですが、立つことも歩くこともできません。入院生活が長くベッドの上にばかりいたせいだと思います。移植をすれば、胆管炎の苦しみから解放してあげられる、立てるかもしれないと、希望を持ってこの信大病院に入院しました。

血液型が同じということで、母親の私がドナーになりました。4月に、1番辛いと言われている血管造影の検査に来たのですが、造影剤のアレルギーが出てしまい途中で中止になりました。内心、少し、いやたくさん「ホッ」としました。しかし胃カメラは、もう2度とやりたくないと思うくらい辛かったです。

手術の前日はニフレックスという下剤のおかげでトイレがいそがしく緊張する間もありませんでした。眠剤ももらいましたが飲まなくてもよく眠れました。

当日は朝8時からストレッチャーに乗せられました。私より15分早く手術室に行く娘は、何も知らず「レッツゴー」とはしゃいでいました。その姿を見て、いよいよだなと思う気持ちと、今までの辛かった2年以上のことを考え、涙があふれました。手術室に行き、硬膜外麻酔をして、それからは全くわかりません。麻酔は少しチクッとしただけで痛くはありませんでした。

「終ったよ」の声で目が覚めました。気づくとそこはICUでした。私は目が悪いので。周りに誰がいるのかどうなっているのか、よくわかりませんでした。ただ「娘は?」と尋ねたことは覚えています。誰かが「手術中」と答えていました。それからは、ただただ眠くて仕方ありませんでした。痛みはそれほどありませんでした。

次の日、ICUから病棟に上った時は「これならもう歩けるかもしれない」と思ったのですが、その夜からだんだん痛みが出ました。痛みは筋肉痛を何百倍にしたような痛みでした。痛み止めを定期的に打ってもらいましたが、肩に打つ注射、それがまた痛くて…。その上幻覚を見るようになり、3日過ぎからは打ってもらうのをやめました。3日目くらいから歩いてトイレに行け、4日目にはどうにか車イスでICUに面会に行きました。娘はすでにすわってテレビを見ていて、明らかに私より回復が早そうでした。

一番苦しかったのは、術後、管を鼻から胃にかけて入れていたことでした。私は咽頭反射が強く喉のチューブが動くたびに激しい吐気がしました。先生が来るたび「抜いてください」とお願いしましたが、胃液の量がなかなか少なくならないのでOKが出ません。4日目にやっと抜いてもらいましたが、すでに胃がねじれていたらしく膨張感が増していくばかりでした。胃のねじりは胃カメラで治すことができるのですが、術後まだ浅いのでできないということでした。治してもらうまでの3日間、先生にお願いして管を鼻から入れ、胃液を注射器で引いてもらいました。とても苦しかったです。

3週間ほど過ぎた頃、順調であれば退院なのですが、私はドレーンがなかなか抜けませんでした。それだけではなく傷口が急に痛み出しました。先生に診てもらうと赤く腫れているとのこと、傷口にばい菌がつきウミのようなものがたまってしまったらしいのです。ピンセットのようなもので傷口を開き、それを出し、ガーゼをつめました。飛び上がるほどの痛みでした。

私がそんなことをしているうちに、娘の方は「超」がつくほど順調で、先生方に「レシピエントの方が先に退院だな」と言われ続けました。が、傷やドレーンは「日柄」なので、特に気にせず入院生活を送ることができました。 現在術後45日目になりますが、私のドレーンも抜け、傷口もきれいになり、あさって娘と一緒に退院します。レシピエントとドナーが一緒に退院というのは珍しいそうです。

最後になりますが、信大で移植の手術ができて本当によかったと思っています。歩けない娘を見て「歩かそう」と言って点滴をできるだけ手にしてくれた先生の思いやりが、とてもありがたく感じられました。そのかいあって、今まで立つことができなかった娘が術後40日目に立つことができました。娘もとても嬉しそうでした。それから術後私が動けない時、イヤな顔一つせず私のわがままをきいてくれた優しい看護スタッフの皆さん、手術の手配から住むところまで面倒みてくださった草深コーディネーターに心から感謝します。

これからドナーになる方は、大変なことを一つ一つクリアしていかなければならないと思いますが、移植後レシピエントの元気になっていく姿を思えば難なくクリアしていけると思います。がんばってください!

– 退院時記録より –
入院 2002年6月
退院 2002年8月

30代女性

レシピエント 息子

【手術まで】
胆道閉鎖症の息子の移植の為に、信大病院へ来る日は突然やってきました。病状の安定していた息子でしたが、胆管炎で発熱、あっという間に40度を超え、敗血症になってしまいました。回復できたらすぐに移植しようということになり、連絡を受けた池上先生が、川崎の病院まで来て下さいました。この時、手術室移転で、1週間後に行うかそれとも1ヶ月先にするかという話になりました。私は1日でも早くという気持ちでしたが、ドナーの安全も無視できないからと夫に説得されて、話し合って、結果1ヶ月先にお願いしました。それまで私は付き添いをしながら、少しずつ検査を進めました。
最も辛かった検査は、血管造影です。尿管が入ったりストレッチャーで運ばれたりと、手術さながらの雰囲気に加え、麻酔の注射とカテーテルの入る瞬間の痛みが予想以上のもので、びっくりしました。「顔色がどんどん悪くなるので心配したよ」と検査して下さった先生にも言われたほど、痛みと怖さで青ざめていたようです。

【手術】
息子を抱いて、歩いて手術室に入りました。緊張はなかったのですが、硬膜外麻酔がどのような感じなのか、それだけが心配でした。痛みも無く、無事に管が入ると、ホッとして、涙がでました。全身麻酔は、2秒でかかりました。
「終わったよ」と声がして、目が覚めました。ICUへ移動中でした。痛みは全くありませんでした。自分に余裕がある分、一つ向うのベッドの息子が気になって、この夜は眠れませんでした。

【病棟で】
笑ったり咳をしたりくしゃみをすると、腹部に火がついたような激痛が走ります。両手でギュッと押さえてからすると楽でした。キズの痛みは無かったのですが、胃が痛くなってきて困りました。それで、夜だけ眠るために痛み止めを打ってもらいましたが、夢ばかり見て、疲れたり幻覚が見えてきてしまったので、眠剤に代えてもらいました。すると、胃痛もある朝、突然消えました。術後3日間が辛いときでした。1週間もすると、だいぶ体が楽になってきます。
順調に回復、退院できましたが、麻酔の影響で左手の先が少ししびれて、治るまで1ヶ月ほどかかりました。それから、後頭部のベッドに当たっていた部分の毛が抜けました。意識して、同じところばかりが下にならないように気をつけた方が良いようです。

【最後に】
先生方は、厳しい話をされますが、そうならないように全力を尽くして下さいます。
日が経つにつれ、すごい手術をしたのだなあという気持ちが強まりましたが、元気になっていく息子を見ていると、手術して頂いて本当に良かったと思います。入院中、ストレスも感じずに落ち着いた気持ちで体調を戻してこられたのも、個性的で楽しい先生方と明るく優しい看護師さん達のおかげと心から感謝しています。

– 退院時記録より –
入院 2002年5月
退院 2002年6月

40代女性

レシピエント 息子

「なんだか、体がだるい…」。夏バテ?夏カゼ? こんな日が10日から2週間。目の色の異常さに気がつき、8月1日、佐久の病院の救急外来で受診、急性肝炎とのことで即入院。採血の結果報告では、GPT、GOTが4ケタ! 知識のない夫と私は、それがどういう数値なのか何を意味するのか雲をつかむ様な話である。まず内科で点滴…。よい結果ナシ。1週間程で肝臓専門病棟へ移動、担当医師からの説明は、急性肝炎、しかも亜急性…。亜急性? なに? なんなの? 劇症肝炎? なにそれ? どうして? どうしてあの子が? なんとかして!!

劇症? 死? 最悪の言葉ばかりが自分の体中の血管を通して駆け巡っている。夫共々体中の力が抜け、呼吸もできないくらい胸が苦しく、ため息をついては涙をこぼし、眠れぬ夜をいく晩となく過ごしました。肝臓の数値は、上がったり下がったり…、期待を持たせては、地獄に突き落とされる…。まさかの死を予感するのにそれ程時間はかかりませんでした。夏のくそ暑さも照りつける太陽のまぶしさも眠さも空腹さえも感じない。家に帰っては夫と涙する…。どうすればいいのか? 何ができるのか? なす術もなく涙も枯れた頃、医師からの移植の話に、すがる思いで信大に入院したのです。

8月15日、担当医師自ら救急車に同行してくださいました。15日は佐久でも諏訪湖でも真夏の夜空に満開の花を咲かせる花火大会の日でした。息子はまだ19才、一瞬で終わる花火のような命にしてなるものか、絶対私の肝臓が適合する、私の肝臓以外にない…。なぜか、そんな確信にも似た不思議な思いをフツフツと心に感じたのです。

信大に来て2日目、意識はしっかりしている。まだ劇症ではないとの池上医師の言葉どおり、移植の話もちゃんと一緒に聞いている。しかし、時間とともに恐るべき脳障害がしっかり現れ出した。劇症との判断が下されると(すでに私の肝臓32%でクリア)、私も入院。18日である。

20日の手術に向け、ドナーとしての必要最低限の検査が急ピッチで行われた。検査の合間には預血、ICUに持ち込む品物等々、草深コーディネーターの手を借りて売店にて準備。時間が欲しい…、でも息子の脳障害が進んでしまう。廊下を歩いていても検査を受けていても、自分の体はいったいどこにあるのか? 雲の上をフワフワ歩いている様な、悪い夢を見ている様な…。悪い夢なら早く覚めて欲しいが、この場にいてもまだ現実を受け入れられない自分がいる。手術は間に合うのか? 脳障害は残らないのか?

草深さんの「ICUの中、見てきますか? 明日手術なので、息子さんの顔を一緒に見に行きましょう」という言葉に、思わず首を振り、「今の息子には逢いたくない、つらすぎて…」と、既に枯れてしまったはずの涙が、信大に来てから初めてあふれ出て止まらない。「分かります、分かります…」頷きながら私の背中を優しくさすって一緒に泣いてくれたコーディネーターの存在がこの上なく力強くありがたく思いました。思い直して逢いにいった息子は、既にぬけがらの様でした。「お母さんの肝臓あげるんだから、しっかり受け取ってよ!」と、耳元で叫ぶ私の声も届かない、うつろに開いた目は宙を泳いでいました。もう一刻の猶予もない緊迫した状態に思え、気はあせるばかり。早く手術を、明日なんて言わないで、今すぐにでも…。

夜になって、池上医師からは手術の説明があり、一方別室では適合の検討会議が行われ、準備は着々と進められている。思わずコーディネーターの顔を見る。気持ちを察してか、ニッコリ頷いてくれた。「先生方、可能でない限り手術はしませんよ、だいじょうぶ」の言葉に大きな希望の光が見え、勇気が湧いてきました。

そして手術へGOサイン。よかった、やっとこの時が来た、不安も恐怖もなく臨むことができました。目覚めるとICUのベッドの上。最初に口から出たのは、「息子は? だいじょうぶ?」だった。誰の声だろう、「だいじょうぶですよ。ごめんね、もう少し時間かかるけど、だいじょうぶ!」。もうすぐ終わる、がんばれ…、そう思いながら、再び意識が遠くなった。

ICUからの退院時、ベッドから顔を見せてもらった。眠っている。「いいよ、今はゆっくり眠りなさい。でも、目覚めたときは必ず以前のあなたで目覚めてね」、祈る思いでした。ICUのベッドの上で暴れている、ベルトで縛られている…OK! OK! 池上医師より、この状態になれば正常近くまで回復するとのお話だったので、まず第1ステップクリアー。4日目の朝、車イスで面会に連れて行ってもらう。まだテンションは高いけれど、母親がわかる、私の体を気づかう。そして「ありがとう」。数日前とは違う熱い涙がこみ上げてくる。1週間後ICU退室、その1週間後4人部屋へ移動と、親子共々、順調に回復させていただきました。とはいえ、長い戦いの道のりを出発いたしました。

信大への転院が1日ずれたら、私の肝臓が不適合だったら、手術が20日に行われなかったら…と、今考えるとなんとタイミングに恵まれたことでしょう。我々を支えてくださった方々に感謝で言葉もありません。7階東病棟の先生方と外科の先生方との連携プレーにも感謝と感動です。医師として患者の命を救うため朝夕労力を惜しまない姿を目の当たりにして、安心して息子をおまかせしました。術後17日目、私は家に戻ります。

この体験を通して、今まで味わうことができなかった人のあたたかさ、家族の和と団結、強く結ばれた絆を感じました。これから先何があっても乗り越えて参ります。それが、病棟の先生方やスタッフの皆様に対する感謝のカタチですから…。「朝の来ない夜はない」「闇が深ければ深いほど暁は近い」、身をもって学んだ言葉です。

– 退院時記録より –
入院 2002年8月
退院 2002年9月

40代女性

レシピエント

手術前に
今回の入院より前に、一度入院して手術が出来ずに退院しました。それで手術が出来ることがとても嬉しくて、不安も何もなく入院しました。(もちろん先生からいろいろなリスクがあるということを説明して頂きましたが…)。

手術当日
目が覚めたら、ICUでした。正直、「イタイ!」「イタイ!」

2日目
予定表には「ベッドに腰掛ける」とあるけれど、「ムリ!ムリ!」。痛み止めの注射をしても長くは効かなくて、「5時間あけなきゃ、次は打てないの…」、なんて、聞いてないヨー!

1週間後
「日が薬」って本当!っていうと、先生におこられるかしら。1日1日、楽になっていくのがわかります。重湯からおかゆに、管が一つずつ抜けていって、自分の体に戻っていく!

3週間と2日
明日、退院です。妹はまだ「眠り姫」です。
先生、看護師の皆様、いろいろワガママを言ってごめんなさい。それから、たくさんありがとうございました。妹をお願いします。

– 退院時記録より –
入院 2002年6月
退院 2002年7月

40代女性

レシピエント

姉は6年ほど前より、足の痛み、視力低下を訴え、昨年8月、FAPと診断され、唯一の治療法として生体肝移植しかないと言われ、私はドナーを申し出ました。申し出はしたものの、迷いはありませんでしたが、未知のものに対する不安がありました。そんな中、草深さんから、同じ立場の仲間や移植後の方々を紹介され、1ヶ月後、2ヵ月後の目標を持つ事ができました。

身長154cm体重50kgの私は、作年の10月上旬、1週間の検査入院後、中程度の脂肪肝と診断され、その後、月1、2度ずつ東京からあずさにて松本に向かいエコーと自分の手術用の預血をして、家では、週3、4回フィットネスクラブに通い、エアロバイク40~50分と、水中歩行60分と、有酸素運動にて脂肪を燃やし、土・日には、主人のゴルフ練習中、信号のない所、荒川の土手にて90分の早歩き…。家族の協力を得ながら、仕事をしながら、月平均1kg強、上質タンパク質をとりながら、6kgの減量を、2月までにしました。

以上のように、手術前の方が私にとって長くつらい日々だったので、手術そのものは、キズの痛みもほとんど感じず楽でした。ただ手術後3日目頃より、テレビで料理番組を見てからか、胃の痛み、ハリ感を覚え、妊娠中の子宮収縮を思い出す様でした。13日目に、内視鏡と内服薬にて少しずつ楽になりました。又、麻酔の合併症の為か右声帯が働いていない事がわかり、経過待ちです。(声帯がうまく閉じない為、薬やみそ汁等水分を飲む時、飲み込みがうまくできず、むせてしまいました)。

最後に、ドナーも、今回から手術後一晩ICUに入る事になり、家族も同時に二人に会え安心でき、私自身もICU退室時、元気な姉を確認してから戻る事ができました。また入院中も、ICU個室以外は、姉と同室の隣同士にして頂き、お互いの様子がわかり、心強く励みにもなったと思います。

私は、明日退院です。
信大の先生方、看護婦さん達と出逢えた事、姉共々感謝いたします。ありがとうございました。

– 退院時記録より –
入院 2002年2月
退院 2002年3月

40代女性

レシピエント

何から書いていいのか悩みますが…。とにかくここにこられて本当によかったと思っています。先生方はていねいだし、看護婦さん方もやさしくて親切で、すごーく温かさを感じました。

初めは不安で不安で、これからどうなるのだろーと考える毎日でしたが、そんな不安さえやわらげて頂いたようにも思えます。

おかげで病気(体)だけでなく気持ち(心)も治して頂いたみたいです。 これからも大変な事がたくさんあると思いますが親子一緒にがんばります。

本当にいろいろありがとうございました。
心より感謝しています

– 退院時記録より –

40代女性

レシピエント 母親

母は9年ほど前に人間ドックからこの病気がわかりました。もともと病気らしいことをしたことがない元気な人だったのですが、ここ2、3年の間に入退院を繰り返すようになりました。最後に入院する前には、脳症を起こしているようで変な行動をとるようになってしまったので、肝移植をしていただくようお願いしたのです。私は、ドナーになることには何の迷いもなかったのですが、まだ中学生の一人娘を持つ身としては、やはり家のことが心配でした。でも、母が元気になってくれるならと思い、決心しました。

3月末に、血管造影のため2泊3日入院しましたが、その時は、検査そのものより後の安静が結構つらかったです。その後は、何回か貯血、MRI、CTなど、外来に通いました。私は、家が病院に近いので、遠くから家族で見えている方々にくらべると、とても恵まれていました。

手術日当日は、母と同じ時間に家族に見送られてストレッチャーで手術室に入りました。日に日におかしくなっていく母を見るのはとてもつらかったので、待ちに待った日という思いで恐いという感じはなかったです。気がついた時はICUにいました。その時は痛みもなく(硬膜外麻酔のおかげ?)、娘や主人、父がいたのを覚えています。その次に目が覚めたのは夜中の3時半くらいだったということですが、母の手術が無事終わったと聞き、ホッとしました。先生方に感謝、感謝でした。

手術前にいただいた予定では、術後3日目くらいに皆さん立てるということでしたが、私は先生方に何と言われても、痛くて立ち上がれませんでした。特に、個室から出た1日目が痛くて、痛み止めをせがんでは、先生方や看護師さんを困らせてしまいました。やっと立ち上がったのは6日すぎてからだったと思います。いつまで続くかわからないこの痛みは、娘を出産した時以上でした。母が良くなるのなら、ちょっとお腹を切るくらい平気と思っていた私が甘かったようです。

やっと車イスでICUへ母の面会に連れて行ってもらいましたが、母の回復には時間がかかるようでした。2週間が過ぎ、母が病棟に戻ってからも、親子で先生や看護師さんに本当によくしていただいています。先生方は、こちらに泊まっているの? と思うくらい朝早くから夜遅くまで、大変だと思いました。

私は術後3週間位で帰る予定でしたが、胆汁がまだ出ていて、1ヶ月以上になってしまいました。でもお腹に管をつけたまま退院して、あとは毎日通院する予定です。とても楽しい先生方と優しい看護師さん、それから入院前からいろいろお世話をしていただいたコーディネーターの草深さん、1ヶ月以上も一緒にいたらいつの間にか何でも話せるほど心を許していました。

まだまだ一人では何もできない母をおまかせして退院するのはつらいのですが、どうかよろしくお願いします。長い間お世話になりました。心から感謝しています。

– 退院時記録より –
入院 2002年6月
退院 2002年7月

40代女性

レシピエント 従兄弟

生体肝移植とかドナーとかそういう言葉は、私の周りでは新聞やテレビの中の出来事でした。従兄弟が肝臓をわずらっている事は前から知っていましたが、移植する状態にまでなっている事など、知る由もありませんでした。私たちは18年くらい逢っていませんでしたし、東京と北海道という距離で、年賀状のやりとりくらいのお付き合いだったからです。でも、妹からその事態を聞き、彼女が検査をしようとしている事から、自分も同じ血液型として一緒に受けた方がいいのかなという気持ちになり、ドナー検査をする事になりました。

私達姉妹は2月に上京し、従兄弟に再会しましたが、彼の体は腹水によって大きくお腹がせり出し、顔色も悪く、目は落ち込んでいました。状態がかなり悪い事は素人目から見ても判断できました。「何とか助けてあげたい」という思いになり、検査結果を待ちましたが、私がドナーになる事になりました。決まった事を主人に話すと「勇気があるね」といって賛成してくれました。手術までの数ヶ月、仕事をしている関係上、多くの人々にその事を話し理解してもらわなければなりません。その時に「すごいねえ、エライねえ」とか色々なほめ言葉をいただきましたが、それがかえってストレスになってしまい、できれば黙って終わらせたかったという気持ちでした。今までお産以外で入院した事のない私にとって、手術前の様々な検査は苦痛でした。特にカテーテル検査に関しては、手術の模擬ではないかと思うほど恐かったです。「入院して手術を受けるという事はこんな過程を通らなければいけないんだ、これは仕方ないんだ」と自分に言い聞かせました。又、今までたまにしかしなかった、採血を含めた注射が本当に苦痛でした。ドクターが注射を持って現われる時は、内心ドキドキもので、どうかうまくしてくれます様にと願いました。やっぱり、健康な人が毎日注射や点滴をするのというのはストレスなんだなーと思いました。

手術まで2週間という期間で、病院生活に慣れ、検査をこなす…。そして、一番重要で必要だったのは、従兄弟との時間でした。彼がどんな人で、どう生きてきたのか、どのような価値観を持ったきたのか…。

自分の体の一部が他の人の中で生き続けるという状態は、とても非常な事、気になる事だと思います。たとえば自分の家族の誰かが亡くなり、その体の一部を他の方に提供する事になったとしたら、その人の安否をいつも気づかい、元気に生きていってほしい、その人の中でいつまでも生き続ける臓器に対して、亡くなった人が生きている様ななぐさめを受けるのではないかと思うのです。

自分の臓器に対しても、それに似た様な気持ちをいだいてしまいました。自分の肝臓がすごく、いとしい様な大切な様な「今まで私の体で元気に働いてくれてありがとう。これからは他の人の体の中で頑張って働いてね」って。あるマラソンランナーが「自分をほめてあげたい」と言いましたが、私なりによくわかりました。

ドナーになった事を後悔したり迷ったりした事は、今も一度もありません。手術後も順調に回復しています。ただ、これはとても個人的な選択であり、私ができたからあなたもしてみたらという様な事柄ではないと思いました。肉親とか兄弟姉妹だからという事ではなく、自分がその人を助けたい、その人が大切な人だと思ったら、ドナーになれるのではないかと思っています。

最後に、この様な大きな出来事でしたが、信大の先生方、草深コーディネーター、ナースの皆さんの暖かい適切な治療と看護に感謝しています。又、この入院のために家族が協力ををして快く送り出してくれた事にも感謝しています。病院の中でも、様々な方からのアドバイスや励ましの言葉がありました。出会えた多くの皆さんに感謝しています。

– 退院時記録より –
2001.8.28

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